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「詩と散文の境界線てどこにあるんだろうな」
桜の花びらが紙コップの中に落ち、波紋を作る。
梶井基次郎の『桜の樹の下には』は、『詩と詩論』の掲載時、詩欄に組まれた。
ボードレールの散文詩に影響を受けた彼は、無意識のうちに詩の領域へと越境したのだ。
優れた詩人でありながら散文へと移り行く作家もいれば、徐々に詩の韻律を持つ文体に変化した作家もいる。
散文詩と散文をクロスオーバーしながら生み出された名作たち。
「線引く必要ある?」
「いや、無いな」
散文的である。とは、詩情に乏しく、趣が無く、不調和なことを指す。
だが、詩歌の韻律に縛られぬ散文にも詩情や趣はある、と不規則に舞い散る桜を見ながら越境者たちに思いを馳せた。
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本家300ssは初参加です。
拙作『江戸川悠の考察教室』のスピンオフですので、キャラや状況など分かりにくくてすみません。
300ssポストカードラリー参加作品『二〇一七/〇四/〇一』の続きとしても読めます。
『桜の樹の下には』が、季刊雑誌『詩と詩論』に掲載された際、春山行夫の判断で詩欄に組まれたことを梶井は「小説だと断ったのに!」と後にクレームを入れています。
今は普通に小説として売られているので当たり前に小説として読んでますが、散文詩だと言ってもおかしくはない程に詩情に富んだ作品ですよね。
詩から散文へは、宮沢賢治しかり、室生犀星しかり、中野重治などの例を想定して書きました。
散文が詩的になる例としては、梶井はもちろん、葉山嘉樹の作品に出合った後の小林多喜二とかもそうだなぁと思って書きました。葉山作品も詩的な匂いのするものが多いです。
こういう詩と散文の境界線をクロスオーバーした作品は、明確にどちらとカテゴライズできる作品とはまた違った不思議な味わいのある作品が多くて個人的には好き。